地方在住落ちこぼれ学生の雑記

あんまり信用できないブログ兼公開メモ

俺の墓で踊れ

 へばりつき、べたつき、砂でざらつき。

 言葉遊びもレトリックもそこそこ面白いです。

 主人公のハルはカートヴォガネットの考えることから着想を得ることでその人物を伺えるのが良いと思います。大江健三郎が急に引用を入れますが、こちらはもう少し穏当に引用を入れることで違う匂いや触感のする文を混ぜられます。

 舞台は北イギリスで作者もイギリス人です。作者の過去の教職の経歴と作中の英文学の教師の存在を考えるとアメリカ文学とイギリス文学の違いがあるように、この作品中の英文学の意味は少し動く物だと言えます。

 徳間文庫の解説にも書いてありますが、この作品は、主人公の日記や保護監察官?みたいな人のレポートや新聞記事など全て書かれたもので成立しています。そのため、こまかな個人的な注釈や強調、職業による視点や文体の変化があり、その意味で書くことでの特徴が表に現れている作品です。

 なので、文学としては語るより書くことを重要視された作品です。特に主人公の日記は英文学の教職に勧められて書いたものなので少し特殊に考える必要もあるかもしれません。

 昨日のさまざまな光景が勝手に映写された。フランス映画のように、転覆から酔っぱらいのあとまで、昨日の全てが。だが順番にではなく、入り乱れていた。場面によってはスローモーション、良かったところや戸惑ったところや、考えると必要のあるところは即時再生つき。

俺の墓で踊れ エイダン・チェンバーズ作 浅羽訳 徳間文庫 142頁

 ここは主人公の文章の部分ですがリアルな文章で好きです。

 気になる点は、ソシアルワーカーのレポートでハルがヴォガネットの引用で人生における愛の重要性を語るところでしょうか。バリーへの愛を悩んでいるのでしょうか。なんせ飽きられて浮気されたわけですから。

 しかし、学生を主人公にしたことでこうしたのか主人公はなにも分かっていません。自分の考えや感情を上手く言語化(最近少なくとも2020年前後から流行っている言葉ですね)できていないことを文章で自白します。主人公の教師としても感情の整理のためにも主人公に回想文を書かせるのですが、それでも自分で自分が分からないとするのです。

 また、多くの小説の作者がそうであるように書くことによって主人公自身が回復しているように感じます。私たちは過去の出来事を思い出したり思考する際には、上の引用のような形で行ってしまいます。しかし、一般的にその内容を文章にする際には初めから終わりまでの連続した流れを意識します。そうして整理、自己外部化することによって回復しているのでしょうか?バリーの墓で踊ること、バリーの好みの服を燃やすこと、全てを書くこと。これらは「監督失格」で平野が自分に取りついた林を落とすために行ったグリーフワークに値すると言えるでしょう。

 最後の最後で主人公はバリーに依存していた過去の自分から決別することにしたように見えます。全てを支配してもらおうとする自分の性質から。バリーを頭の中心から隅に追いやろうと、それも自分自身を変えることで達成したいように見えました。

 さらに、ソシアルワーカーのレポートによると、初め主人公は明確に事件について喋ることを、あえて言い換えて、語ることを明確に拒否します(徳間36頁)が、最終的に書くことによって事件についてソシアルワーカーに伝えました。この事実は注目すべきポイントでしょう。

 やはり、この小説は色々な形で書くことにフォーカスしていることを感じます。

蓮實重彦の小津論

 蓮實重彦さん自体はあまりよく知りませんが、彼の小津論を一度は読んでみたいとは思ってました。

 かれは小津の映画を単調さやシンプルさ等のこれまで(初版は80年代ですが)用いられてきた言葉で語りたくないという思いが底にある本です。

 それでいて著者の映画観というものが垣間見えて、その映画観は個人的な映画の特性に対する考えと似ていたのでそこも個人的なポイントの一つです。

映画を見るとは、同じ一つのフィルム断片の上に共存しているこの二つの ものを、同時に触知することにほかならない。同時に共存しあうその二つのものが、三つ、四つと複数化されてゆくとき、スクリーンには豊かな意味 作用の磁場が形成される。そこでは、主題論的な体系と説話論的な構造とが無方向に戯れあい、画面の連鎖を一つの物語に還元することを妨げているのだ。つまり、「食べること」が食べることならざる多くのものと親しく微笑をかわしあい、たがいに排斥しあうことなく相手を肯定しあう画面がそこにつくりあげられるのである。小津安二郎の美しさは、こうした複数の物語の共存ぶりの中にこそ認めらるべきものだ。

蓮實重彦. 監督 小津安二郎 (ちくま学芸文庫) (Kindle の位置No.803-809).  Kindle 版. 

 どうせ映画を楽しむなら映画の特性や可能領域を楽しみたいと思いませんか。文学では得られない体験。それをよく言い得ていて面白いです。どうしても単語や文体が難しいですが生きていた時代や肩書としては仕方ないでしょう。小遣い稼ぎで書いた本ではないのは明らかですが、それでいて読みにくいのは中々面倒くさいです。

 初期を除く小津さんの映画は俯瞰や動きがないカメラワークが有名です。実際小津さんは途中から俯瞰は嫌いだという文言を聞く人が多かったといいます。そして独特なローアングルは座ったときに水平であることだ重要だろうと思います。上から見下ろすようなアングルが偉そうで嫌いらしくて同じ目線にしたいとかんがえられます。

 俯瞰というのは突き放した印象を画面に与えます。また、俯瞰やパンは殆どの映画では何回も使われる技術で当然あり得るものです。

「映画には文法がないのだと思う」という小津の名高い宣言は、おのれの作品世界を確信しきった大作家の自信の表明というより、制度化された技法への無自覚な確信が映画的環境をどれほど鈍感化させるかを体験的に知っているものの苛立ちの表明と理解されねばならない。

蓮實重彦. 監督 小津安二郎(ちくま学芸文庫) (Kindle の位置No.1810-1813)

 小津は失敗に終わった石原慎太郎が監督を務めた映画「若い獣」にまで期待するほど映画の画面の慣習に疑問をいだいていたそうです。不自由で自由を語るというのがこの本の論調です。私は小津に詳しくないのでこれはそのままにしておきますが、撮影技法を多用することで自由に演出しているつもりが、ありきたりになっているというところに対して疑念をいだいていたのでしょうか。

梅原猛「地獄の思想」

 ウメハラさんは2019年に亡くなったそうですね。もっと前の人だと思っていいただけに意外でした。

 地獄の思想という本は地獄の概念を思想史的に捉え直し、そこから日本の古典から近代文学までを射程として地獄の概念から読み解こうという本です。なぜこの本を手に取ったかを敢えてここに記すと、宮沢賢治が題材の一つに掲げられているからです。

 ぼく個人は宮沢賢治自体に直接執着を持っていませんが間接的に執着があります。それも地獄と結びつくと言われればここにも間接的に執着があります。それは古東哲明の臨生の思想です。私は古東哲明さんの思想には非常に興味があり、著作の一つに宮沢賢治を介してその思想を解説した章があります。そして、地獄という概念と臨生の思想の親和性は高いと本の概要を見て感じました。

 以下本編です。

地獄思想は、仏教においてかなり早くから現われる。もっとも早く成立したと思われる釈迦の説法集である『法句経』や『スッタ・ニパータ』には、すでに地獄の思想があるが、極楽の思想が出てくるのは、紀元後一世紀ころなのである。(略)極楽を説くのは、仏教においても浄土教と称せられる一派にすぎない。

地獄の思想 日本精神の一系譜 (中公新書) (Kindle の位置No.134-139). 

 知らなかった知識です。極楽浄土は因果応報を世界に持ってくるキリスト教的思想でありなんだが仏教らしい発想ではないという意識はありましたが、はっきりとした実感はありませんでした。まあ、解脱や空の思想からすればどちらも信じられません。釈迦も積極的に地獄の思想を語ることは無いようでした。

 ウメハラはここで仏教はフロイドの思想でいうエロスとタナトスの両面を持った思想であると言われます。肉体性と理性の矛盾的に統一された思想です。カミュのような思想であるという文もありましたが面白い視点です。ウメハラさんは儒教の現実主義に対して仏教は夢幻主義と言えるとします。グノーシス派みたいな感じですが、この世界は仮の世で一切は空であるが故に価値があるとでも言いましょうか。

賢治は、現代において、まったく珍しく、書くということの本来の意味を知っている人間であった。したがって、彼の詩や童話が、すべてそういう大乗仏教の真理解明の手段として読まれねばならない。

梅原猛. 地獄の思想 日本精神の一系譜 (中公新書) (Kindle の位置No.2528-2530). 

 普段我々は作品と思想を分けて考えています。それは習慣から来るものですがその習慣には我々がそこに触れたくないということもあるでしょう。

 賢治はこの詩で、電燈という言葉を使う。それは、自然の大生命がもつ意識の比喩であろう。自然の大生命は、いくつかの意識を仮定する。そしてその意識はあるあいだともり、あるあいだ消えてゆく。

 個人としてわれわれの意識は、青色の光をもやしながら、ある期間ともり、また消えてゆくけれど、宇宙的生命の意識は全体としてひかりを保ちつづける。ひとつひとつの 意識は、このような世界において、自分の世界を中心にして、ひとつの本質世界を考えるが、けっきょく世界は多くの意識の窓をともなう大生命の 流れである。

 ひとつひとつの意識はそのように独自な仕方で宇宙をうつす が、それは、けっきょく宇宙を貫くひとつの大生命のあらわれにすぎない。

梅原猛. 地獄の思想 日本精神の一系譜 (中公新書) (Kindle の位置No.2569-2575). 

 FF7のライフストリーム的な・ゼノブレイドの世界観みたいなものです。

仏教を無常感でしかとらえられない人は賢治のこの一節を読むがよい。無常感は、仏教の前提である。むしろ仏教が語りたいのは、無限の生命、大宇宙にみなぎる不思議な生命の輝きである。

梅原猛. 地獄の思想 日本精神の一系譜 (中公新書) (Kindle の位置No.2621-2623). 

 ここまでくればカミュや古東哲明さんの思想とほぼ同じです。いや全く同じと言ってもいいんじゃないでしょうか。無常観というのはニヒリズムと言い換えれば言葉の違いすらなくなってしまうそうです。

 この本に太宰のことも書かれていました。僕は太宰のことは詳しくないのですが、地主階級出身で共産党に入ってマルクスに傾倒した後党を抜けたそうです。これだけで人生の苦痛の理由が分かりそうなものですね。

起源論的保守主義と起源論的経済学②

 政治経済の話は一般的にはあまり面白くない話題であると思われるのでそろそろ最後にしたい気もします。

 今回はエドマンドバーク(1729~1797)とアダムスミス(1723~1790)の話を少しだけしようかなという構想です。

 どちらもフランス革命(1789)を批判しアメリカ独立(1776/独立宣言)についてもバークは擁護して、スミスは事前に植民地から領土併合も独立もありうる上にアメリカを尊重しなければうまくいかないと考えていました。

 死んだ年齢と革命が起きた年を比較するにアダムスミスはフランス革命を批判できていたのか気になるかもしれません。

スミス は、一七八九年頃に書いた『道徳感情論』第六版の追加部分において、「体系の人」( man of system)について論じた。

堂目卓生. アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書) (Kindle の位置No.2929-2930). 中央公論新社.

 1989年はまだみんながフランス革命を批判することがなく概ね非の打ち所のない正義によってなされた運動だと思われていました。その後、現在のBLMのようにあまりに残虐な方法による市民蜂起が過激化して同情の声も無くなり統治も上手くいかず恐怖政治やナポレオン独裁になったりするほど不安定な国になった時期が続きました。

 ただし、日本では当時のそのような世論の移り変わりを実際に体験していないがためにフランス革命を手放しで称揚する声も多く夏目漱石も勘違いしていたのではないでしょうか。

 あまり知らない方もいらっしゃるでしょうから申し添えておくとどちらもイギリス人で野党時代のホイッグ(自由)党の議員と哲学と倫理学を担当している大学教授です。バークはアダムスミスの考えに特に経済思想に関して賛同して、政府の活動を最小限にすることで経済成長が行われるという思想は政府を完璧だと思わずに小さな政府・大きな社会を志向する保守主義にとってほとんど符合するものであると考えました。

 体系の人というのは、当時の啓蒙主義の思想家の人達のことを指す言葉で私がよく使う設計主義や主知主義の思想家のことと同じであると考えて差し支えありません。

 体系の人は、(略) 自分が非常に賢明であると思いやすく、しばしば、自分の 理想的な統治計画の想像上の美しさに魅惑されるため、計画 のどの部分からの小さな逸脱も我慢できない。

 (略)彼は、チェス盤の上の駒が、手が駒に伝えるものの他には何の運動原理 ももたないのに対し、人間 社会という大きなチェス盤の中では、それぞれの 駒が、立法府が押しつけたいと思うものとは違った駒自身の行動原理をもつということを、まったく考慮しないのである。

アダムスミス『道徳感情論』

 この時点でかなり長くなりました。前提が長すぎたでしょうか。しかし、前提を固めて論理をつなぐのが個人的に良い語りであると感じているためにこうなりましたのであしからず。

 大事なのは保守主義が変革を嫌い認めないという立場にあるのは本来的ではないということです。それはイギリスの両名がアメリカ革命を是認したところにあります。そもそもアメリカは内部でしっかりとした統率が取れ、独立したところでアメリカ国内での統治機構が十分に作られうると考えたからです。

 保守主義とは建物を補修してリフォームを繰り返すことで伝統を上手く使い使えない伝統は捨て少しづつよくなっていくように変化していく現実に沿っているために実体のない机上では非常にあいまいに見える考え方です。具体的な政策としてこれと言って世界的に共通する保守主義政党の政策は少ないかもしれません。

 今までうまくいっていた体制を十分に評価してその上で上手くいってない部分を変えていくのが核心なのです。

 おまけでハンナアーレントマルクス批判がなんとも変化球なので面白いですが、主知主義主意主義の対立を考えればより深く面白いと思うので載せておきます。

 はなはだしい根本的矛盾は、むしろ二流の著述家の場合にはほとんど起こらないものである。偉大な著作家の作品であればこそ、かえって矛盾がその作品の核心にまで導入されるのである。[Arendt 1998:104-5/ 160]

 

松尾匡氏のコラムの雑感②と日本は新自由主義であったかのかという問題を扱いながら再び新自由主義擁護②

 資本論とかけて嘘ととく、そのこころはどちらも設計的でよくできている。

作 わたくし

次の二つの主張のうち、どちらがケインズ派の主張で、どちらがフリードマンの主張でしょうか。

A.不況になったら、中央銀行がおカネをどんどん発行すること(金融緩和)や、政府が財政支出の拡大をするべきである。そうすると、経済全体のモノやサービスを買おうとする力(総需要)が増えて、景気がよくなる。

B.金融緩和や財政支出拡大をしたら、一時的には生産や雇用が増えるが、それは長続きせず、やがては元の木阿弥になってしまう。結局、インフレや財政赤字が悪化するだけ損で、有害無益だ。

もちろん、Aがケインズ派、Bがフリードマンの主張です。(略)Bは、左翼の怨嗟の的で、世界に新自由主義の惨禍をもたらしたとして悪魔の学説の教祖扱いされているフリードマンの主張です。

 

そして日本今回は特に安倍政権の金融政策は

日本銀行では、2013年4月に、「量的・質的金融緩和」を導入しました。その後、2014年10月には「量的・質的金融緩和」の拡大、2015年12月には「量的・質的金融緩和」を補完するための諸措置の導入、2016年1月には、「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」の導入、2016年7月には「金融緩和の強化」を行いました。

日本銀行HP

金融緩和はケインズ経済学の主張ですね。ケインズはお金の価値を下げて需要を増やす政策(古典派は供給を重視)を重視していたので、デフレ脱却を目指す安倍政権ではこちらを重要視したのでしょう。特にオールドなケインズ財政出動に精を出していましたが、今のケインズは金融緩和を重視していますから。インフレ目標もニューケインジアンの政策ですね。ニューケインジアンのグル―グマンさんが日本に対して提案しています。

 ここまで松尾匡氏のコラムの感想

 

 さて引き続きアダムスミスの論を使って新自由主義(古典派経済学)の擁護をしたいと思います。大事なキーワードは「格差是正より弱者の救済」・「成長なくして分配なし」の二つにしておきましょうか。

 文明社会には未開社会にはない不平等が存在する。しかし、文明社会では、 労働生産性が高いため、総生産物は、すべての社会構成員を養うことができる。そして、最下層の労働者ですら、未開社会の人びとよりも多くの必需品と便益品を消費できる。スミスにとって、国民の豊かさの増進とは、(略)社会の最下層の労働者が消費できる必需品と便益品の量、つまり最低水準の富が増大することだといえる。

堂目卓生. アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書) (Kindle の位置No.1816-1820). 中央公論新社.  

 脱成長コミューンにおける車無しネット無しテレビ無しエアコン無し生活と格差だけども文化的な最低限度の水準として生活保護者がスマホとエアコンと原付か軽自動車が認められているのはどちらが弱者にとって真にいいかと考えたとき、アダムスミスはたとえ格差が激しくても後者の方が水準の高い生活をしているとしたわけですね。

 スウェーデンは高福祉国として有名ですが労働生産性も高いのです。雇用の流動化が進み生産力(供給力)の低い企業はつぶれてもいいという考えの基、サーブやボルボが倒産の危機を迎えた際には政府は援助をしなかったのです。生産性の高い企業に重きを置く、つまり生産性の高い企業というのは成長分野にあるわけですからそこに人的投資をする成長分野の雇用を増やすとなると雇用の流動化は必須の条件となります。

 アダムスミスは経済の成長は分業制と資本の蓄積にあるとしました。ジェネラリスト信仰が強くスペシャリストの扱いが弱い、そのうえ利益剰余金を敵視するような国に成長はないのです。専門用語をやめて定義の薄い俗語を使えば、利益剰余金というのは内部留保なんですがね。

資本家の消費が不変であるならば、税の支払いが小さければ小さいほど資本家の貯蓄が大きくなるということである。税によって徴収された生産物は、主として公務員や軍人の雇用に用いられる。公務員や軍人は、生産に直接携わる労働者ではないので、不生産的労働者である。税の支払いが小さくなり、その分、資本家の貯蓄が大きくなれば、政府部門の不生産的労働を民間部門の生産的労働として用いることができる。

堂目卓生. アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界 (中公新書) (Kindle の位置No.2292-2296). 中央公論新社

 面白い指摘です。増税が単なる消費減退につながるだけでない構造的な問題に強く切り込んでいます。そしてなぜ新自由主義が行政裁量の削減を目的とした緊縮のためではない小さな政府を志向した理由がよくわかると思います。

 長すぎるのでここで打ち切りです。続くかもしれないし続かないかもしれません。

 まあ新自由主義を擁護しましたがケインズを否定したいというつもりはありません。ケインズは失業者がいることを主眼において理論を展開しましたが、古典派は失業者がいないことを前提に理論を展開しました。なので景気が悪化して失業者が増えているときに古典派の経済政策をするのは愚策であるとも言えます。しかし、行政裁量を減らすのはこれに反しないと考えています。あくまで無駄を減らす作業ですので。

新自由主義(古典派経済学)を擁護したい

 みんな嫌いな新自由主義擁護記事なので一部の人はブラウザバック推奨です。

 そもそも新自由主義と言うのは結構あいまいな概念で政治的であり経済的なタームです。自由主義というのは完全に政治的なタームであるけれども新自由主義は経済学を専攻にしていたハイエクを起源としてした非専門的なタームであり結構しっかりとした定義は無かったりします。

 新自由主義と言うのはほとんど古典派経済学でアダムスミスと言っていることは同じです。アダムスミスは一部の分野(国防・教育・司法・インフラなど)以外は市場に任せろという思想です。そこには分業制が経済の基本であり、市場にいる個々のプレイヤーがそれぞれの(分業制によって培われた)専門知識で判断することにより自生的に(反設計的に)富の効率的配分がいきわたると言う内容です。ハイエクは現在の社会は自生的秩序(反設計つまりなんだかよくわからないけどそうなっているもの)によりなっていると考えていますがこれはエドマンドバークやアダムスミスの考え方を継承したものです。

 想像上の立場交換による同感は、常に有功とは限らない。そこで、適宜性が、観察者と当事者との間に生じる情念の食い違いについて、両者を適切な範囲へと統合する役割を果たしている。

参考より

 政府を小さくして社会を大きくするのが新自由主義です。社会の個々人や集団がその道徳と専門知識によって福祉を達成するのが大事であり、自助共助公助というのはここから来るものです。つまり、みんなの道徳心が高ければ共助によって福祉が達成されるので、政府の福祉は必要ないという考え方です。

 人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかに人間の本性の中には、何か別の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心をもち、他人の幸福を──それを見る喜びの他には何も引き出さない にもかかわらず──自分にとって必要なものだと感じるのである。

道徳感情論』

 アダムスミスも同感(共感)を一つテーマにしています。理性というより感情をメインに据えています。ケインズ主義を主知主義、古典派経済学を主意主義と言ったりしますがね。共感は単に利他的なものではなく、共感は中立的で利害を超えるという側面を持つために資本主義でも可能であるという論です。スミスは共感の適宜性を指摘しています。政府の裁量(行政裁量)が大きければ、民間の裁量が減ります。しかし、民間の裁量による再分配のほうがうまくいくと考えるのが保守自由主義です。

 なぜこんな考え方をするのかというのは政府は効率的な再分配は不可能であるからと考えるからです。実際に生活保護の補足率は低いものであります。

 リバタリアン的にいえば国家の官僚は頭が悪く頭数も少なく専門知識が無いのに個々の分野における富の効率的配分を画策するから必ず失敗すると言ったことでしょうか。ジェネラリストの悲しい運命です。

 ただ、本当に理解して欲しいのは単純に行政裁量を目の敵にしているのが一番重要なところです。つまり緊縮財政は敵ではないのです。ベーシックインカム(BI)がよく話題になったりしますが、これはフリードマン(新自由主義の継承者)の負の所得税に起源があると言われている福祉政策です。行政裁量の小さい政府ならば反緊縮の大きな政府であっても十分に市場を中心に据えて経済成長が可能であるという点が重要です。

われわれの内面にある、これらの神の代理人[胸中の公平な観察者]は、 それら[一般的諸規則]に対する侵犯を、内面的恥辱感と自己非難の責め苦 によって必ず処罰するのであり、反対に、従順に対しては、つねに心の平静、満足、自己充足をもって報償するのである。

(『 道徳 感情論』 三部 五 章)

 この引用はただの正論で面白味も何ともないように思えてしまいます。最近何かと厳罰化を求める声や規制強化を求める声があります。それは自己で判断をやめて政府に判断を委任する態度です。そうして中央集権的な組織が出来上がります。共産主義全体主義はその最たる例です。彼らは単一のイデオロギーですから。自由主義は政治的なタームです。なぜ政府に仕事をさせない経済的な思想が政治的なのかここを今一度確認するべきでしょう。

 

参考

ヒュームの正義論において中心的役割を果す「共感」の概念

千葉大学社会文化科学研究12巻

https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900117065/

こころ

 もちろん夏目漱石の小説です。個人的な感想としては具体的過ぎてそれほど面白くないって感じですね。その時期的な前作の行人の方が好きです。

 こころの先生夫婦。門の主人公夫婦。行人に兄貴の夫婦と言い。悉く子供がいません。本人は二男五女くらい生んでるので何を思って子がいない家庭を描いたのかは気になります。そして、少なくともこころと門ではこれが夫婦間の精神的結びつきに負の影響を与えています。

 本作の終盤には乃木希典の殉死が出てきます。大正元年(1912年)9月13日に明治天皇大喪の礼が行われた日の午後8時頃、乃木希典は妻・静子とともに自刃して亡くなったとウィキペディアに書いてあります。参照もついているので確からしいとします。

 こころは、1914年(大正3年)4月20日から8月11日まで、『朝日新聞』で「心 先生の遺書」として連載されたものです。つまり、結構影響を受けているのです。

 乃木希典の自害の原因はその遺書によると西南戦争における連隊旗の喪失としています。実際に西南戦争時にはそれで自害しそうになったところを止められたためある程度真実であろうと考えらます。この遺書は東京の乃木神社HPで見れますが読みづらいので確認程度にしておくべきでしょう。この自害は広く肯定的に受け止められたみたいですが、一部若者たちにとって前時代的な自殺の動機であるとして批判されます。いわゆる白樺派の人たちで武者小路実篤志賀直哉芥川龍之介らです。

 芥川龍之介はこの死を批判的に捉え「将軍」という小説を書くのですが、1922年に書いています。乃木希典の死からやや遅いのは尊敬し敬愛する夏目漱石(1916年没)の存命中に出版するのは失礼であるといったこともあったのでしょうか。

夏の暑い盛りに明治天皇崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の 影響を受けた私どもが、そのあとに生き残っているのは畢竟時勢遅れだという感じがはげしく私の胸を打ちました。私はあからさまに妻にそう言いました。妻は笑って取り合いませんでした が、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうとからかいました。

夏目 漱石. こゝろ (角川文庫) (Kindle の位置No.4168-4170). 角川書店. Kindle 版. 

 先生の手紙の部分です。そしてそのあとに号外で先生は乃木希典の死を知ります。

私は新聞で乃木大将の死ぬまえに書き残していったものを読みました。(略) 乃木さんはこの三十五年のあいだ死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人にとって、生きていた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しい か、どっちが苦しいだろうと考えました。

それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよくわからないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかにのみ込めないかもしれませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だからしかたがありません。あるいは個人のもって生まれた性格の相違といったほうが確かかもしれません。

夏目 漱石. こゝろ . 角川書店. Kindle 版. (角川文庫) (Kindle の位置No.4180-4187).  

 こころはもともと短編集を予定していたそうです。第一編であるこれが長引いたためにこの一作でこころにしたそうですが、この小説は乃木希典擁護から来る小説にしか思えず、その時代に生まれていない私には面白くありませんし社会的な小説でありそんなに好きではありません。

 しかし、こころを明治の精神と紐づけて読むと面白いという読み方があります。先生の言う観念的で形而上学的な生き方をするのは明治の精神であり、これからの「自由と孤独と己に満ちた」近代社会では失われていくものであるというものです。

 この観点を持って行人とのつながりを感じて近代社会における生き方を探った夏目漱石の小説としての価値を見つけることができます。つまり、明治の精神とは矛盾なく生きることです。不可能なのことで明治の精神といっても明治に達成されていたことのようには感じません。しかし、自由がなく孤独もない前近代主義は単一のイデオロギーの共同体社会であろうと論理的に考え付きます。

 ここで、物語の舞台が東京であること、先生が親の死と叔父の裏切りによって故郷を失ったこと、東京に居つくことを志向する主人公の姿がようやく意味を纏ってきます。

 先生が死んだのは明治の精神を達成できなかったので死のうという気持ちが起きていたが、なかなか達成できず明治天皇が死んだ際に、明治の精神を達成できない自分を明治天皇に合わせて死ぬことで失敗した(矛盾している)自分を殺す(無私)することで矛盾を解消して明治の精神を達成するということであるという仮説を思いつきました。

 まあ、僕が勝手に言ってるだけなので優しい目で見てください。

雑記

 アクセス元を見るとかなりはてなキーワードが多い気がしますね。そのシステムではそのキーワードが載っている記事を最新順に載せています。そのために一回公開した記事を編集によって大幅に変えたらシステムはついていけなくなって載らなくなる延べはないかという発想からこの記事を書いています。一応公開状態にはしておいた方がいいとは思いながらあまり見て欲しくはないという思いがあります。

 

 色々思うところはあるのですが結局古東哲学の中心地はここではないでしょうか。いや、本人はそうではないと思うっているかもしれませんが。

ハイデガー古代ギリシア以来現代に至るまで西洋存在論が、暗黙のうちに「存在」を何ものかが現に目の前にあること、つまり「現前性」として捉えてきたことを指摘する。

轟 孝夫. ハイ デガー『存在と 時間』入門 (講談社現代新書) (p.28). 講談社. Kindle 版. 

  こういうところを明記してくれないと分かりづらい思想ですよね。今までの存在という概念は存在に値しないから別概念として考えるという発想は分からなくもないですが、とっつきにくくしているのは確かなことです。やめて欲しい感じは多々あります。それでも定義を明確にしなければ学問として難しいのですが。

 存在了解に関して、存在を単に現前性として理解するか、それとも将来と過去の次元も含んだ重層的な現象として捉えるかという二つの類型が対比されている。そして存在了解の二種のあり方が、それぞれ現存在の非本来性と本来性に対応するのだ。

 つまり、本来性と非本来性は、存在了解の違いとして捉えられるのだ。

轟孝夫. ハイ デガー『存在 と時間』入門 (講談社現代新書) (pp.37-38). 講談社

 むこうの学者は神学部から転向した方が多いんですよね。大抵みんな原始キリスト教はいいんですが教会主義は嫌うんですね。なんなら聖書も矛盾が多いから嫌うこともありますね。まあ、新約に至ってはキリストの死後に出版されている上に戦略的な意図が多く盛り込まれているので仕方のない部分もあるでしょう。

 非本来的自己とはそんなに悪くない言葉です。古東の解説によれば役になりきった役者のようなものだそうです。ただ、不安の突出というのは本来的自己と非本来的自己のずれにあるそうです。だから自分探しの旅に出てしまうのでしょう。このズレが「負い目」であり、若き時代に思想家が没頭したキリスト教の「原罪」です。

 

 ここでは夏目漱石の行人が例として思い浮かべやすいのではないでしょうか。精神病なども理想と現実のずれによって起こるものだといわれたりしますが。行人の一郎は最後は矛盾や目的や行動の不一致に悩んでいる感じが書かれています。

 どうにかここと繋げて考えてみると面白いのでしょうか。やや無理筋でしょうか。

 ハイ デガーは最後には放下という境地にたどり着きます。ナチス入党を後悔したのちの出来事ですが、これはイエスともノーともいわない主義でここでも夏目漱石の則天去私を想起させます。

2021/11/17の日記

 どうもこの間から総理の思惑が理解できずあんまり納得がいかないところがあります。誰かが前総理を国家社会主義だと言ってましたが本当にその通りで現首相はもうどちらかというと集産主義です。

 きだげんさんの反哲学史を少しだけ読みました。フィロソフィア―愛知とは知識を愛するつまり知識を愛するあまりに所有できない人間という意味らしいです。これはかなりの皮肉だそうで、知識人に対する愛知は無知という意味で無知の知を利用して対話で知識人を標榜する相手の誤ちを認めさせる看板だったそうです。ソクラテスはこれまでの自然観を一掃したかったそうです。

 よく考えればへーゲルまでのプラトン主義的哲学はソクラテスの嫌うところのように思えますね。いや、ソクラテスの必要とする思想を打ち立てたのはプラトンではあるんですが。

 ソクラテスの哲学は無限否定にあると筆者は言います。ここが分からないとプラトンの初期対話篇は読みづらいと思います。特に弁明は。

 弁明もよくわからない人達からよくわからない理由で訴訟されるのですが、それは形式的な理由で本当の理由があるそうです。

松尾匡氏のコラムの雑感

 リスク・責任・決定、そして自由! – SYNODOS

このコラムが面白いです。松尾氏は専攻がマルクス経済学で個人的にマルクス経済学自体は嫌いなのですが、このコラムはマルクス経済学に限らず世界の経済学史を戦中戦後位から語っています。タイトルにもあるようにリスク責任決定がまず重要なタームになります。過去の歴史としては共産圏と非共産圏があって、非共産圏ではケインズ主義から新自由主義になった経緯が書いてあります。

 一般論としてマルクスレーニン主義の失敗は公平が競争を生まないと言われたりしますが、ソ連の給料は実力と職業によって大きく異なっていたのでそれは印象論になってしまいます。そこでこのコラムではリスク責任決定を中心のタームにしてコルナイとハイエクマルクス批判を最初に行います。

 コルナイはソ連の企業は失敗しても国がケツ持ちをしてくれるので投資や在庫管理が雑になってしまうことをあげています。過剰な設備投資や素材や人材を過剰にため込んでしまい慢性的な不足経済がはびこっていたとします。これをソフトな予算制約といい、つまり予算の制約が緩いと言う意味で、逆の概念はハードな予算制約でありこれは予算制約が厳しいという意味です。リスクや責任は国が持っているのに決定は企業が握っているところに構造的な問題があると指摘しています。

 ハイエクは別にまあ知っていたところが多々あったのでわざわざ書くほどではないかと思います。いったんここで打ち切りです。