地方在住落ちこぼれ学生の雑記

あんまり信用できないブログ兼公開メモ

新自由主義(古典派経済学)を擁護したい

 みんな嫌いな新自由主義擁護記事なので一部の人はブラウザバック推奨です。

 そもそも新自由主義と言うのは結構あいまいな概念で政治的であり経済的なタームです。自由主義というのは完全に政治的なタームであるけれども新自由主義は経済学を専攻にしていたハイエクを起源としてした非専門的なタームであり結構しっかりとした定義は無かったりします。

 新自由主義と言うのはほとんど古典派経済学でアダムスミスと言っていることは同じです。アダムスミスは一部の分野(国防・教育・司法・インフラなど)以外は市場に任せろという思想です。そこには分業制が経済の基本であり、市場にいる個々のプレイヤーがそれぞれの(分業制によって培われた)専門知識で判断することにより自生的に(反設計的に)富の効率的配分がいきわたると言う内容です。ハイエクは現在の社会は自生的秩序(反設計つまりなんだかよくわからないけどそうなっているもの)によりなっていると考えていますがこれはエドマンドバークやアダムスミスの考え方を継承したものです。

 想像上の立場交換による同感は、常に有功とは限らない。そこで、適宜性が、観察者と当事者との間に生じる情念の食い違いについて、両者を適切な範囲へと統合する役割を果たしている。

参考より

 政府を小さくして社会を大きくするのが新自由主義です。社会の個々人や集団がその道徳と専門知識によって福祉を達成するのが大事であり、自助共助公助というのはここから来るものです。つまり、みんなの道徳心が高ければ共助によって福祉が達成されるので、政府の福祉は必要ないという考え方です。

 人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかに人間の本性の中には、何か別の原理があり、それによって、人間は他人の運不運に関心をもち、他人の幸福を──それを見る喜びの他には何も引き出さない にもかかわらず──自分にとって必要なものだと感じるのである。

道徳感情論』

 アダムスミスも同感(共感)を一つテーマにしています。理性というより感情をメインに据えています。ケインズ主義を主知主義、古典派経済学を主意主義と言ったりしますがね。共感は単に利他的なものではなく、共感は中立的で利害を超えるという側面を持つために資本主義でも可能であるという論です。スミスは共感の適宜性を指摘しています。政府の裁量(行政裁量)が大きければ、民間の裁量が減ります。しかし、民間の裁量による再分配のほうがうまくいくと考えるのが保守自由主義です。

 なぜこんな考え方をするのかというのは政府は効率的な再分配は不可能であるからと考えるからです。実際に生活保護の補足率は低いものであります。

 リバタリアン的にいえば国家の官僚は頭が悪く頭数も少なく専門知識が無いのに個々の分野における富の効率的配分を画策するから必ず失敗すると言ったことでしょうか。ジェネラリストの悲しい運命です。

 ただ、本当に理解して欲しいのは単純に行政裁量を目の敵にしているのが一番重要なところです。つまり緊縮財政は敵ではないのです。ベーシックインカム(BI)がよく話題になったりしますが、これはフリードマン(新自由主義の継承者)の負の所得税に起源があると言われている福祉政策です。行政裁量の小さい政府ならば反緊縮の大きな政府であっても十分に市場を中心に据えて経済成長が可能であるという点が重要です。

われわれの内面にある、これらの神の代理人[胸中の公平な観察者]は、 それら[一般的諸規則]に対する侵犯を、内面的恥辱感と自己非難の責め苦 によって必ず処罰するのであり、反対に、従順に対しては、つねに心の平静、満足、自己充足をもって報償するのである。

(『 道徳 感情論』 三部 五 章)

 この引用はただの正論で面白味も何ともないように思えてしまいます。最近何かと厳罰化を求める声や規制強化を求める声があります。それは自己で判断をやめて政府に判断を委任する態度です。そうして中央集権的な組織が出来上がります。共産主義全体主義はその最たる例です。彼らは単一のイデオロギーですから。自由主義は政治的なタームです。なぜ政府に仕事をさせない経済的な思想が政治的なのかここを今一度確認するべきでしょう。

 

参考

ヒュームの正義論において中心的役割を果す「共感」の概念

千葉大学社会文化科学研究12巻

https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900117065/